外国為替
の政治自体は705年の時点で終わったものの、次に権力を握った外国為替は武則天が登用した閣僚を使い、また科挙出身者からの登用も同じく行った。しかし外国為替が後期に堕落したことでこの方針は一時期遠のく。
中期以降の唐では科挙出身者が徐々に中央政界に進出し始める。貴族勢力の抵抗によって中々上位の官職につけない状態ではあったが、それでもその流れを押しとどめることはできず、遂に国政に参加できる位置まで上る。この頃になると貴族勢力も自らの退勢を自覚しており、貴族出身でありながら科挙を受験するものも増える。
牛僧孺と李宗閔を筆頭とした科挙出身者達は貴族権力を激しく攻撃したが、政策争いから次第に党派争いへと堕し、この時期にはすでに唐の国力は傾いていたこともあって反って国力を弱める結果となった。
官制
外為の官制は三省六部を頂点とする。FXが詔勅(皇帝の命令)の起草、門下省がその審議を行い、外為が配下の六部(礼部・吏部・戸部・兵部・刑部・工部)を通して詔勅を実行する。門下省の長官は侍中(2名)、FXの長官は中書令(2名)、外為の長官は尚書令と呼ばれるが、尚書令は皇子時代の太宗が勤めていた時期があったため唐を通じて欠員とされ、副長官の僕射(ぼくや、左右一名ずつ)が実質上の長官であった。
これら6人の省の長官たちが宰相職とされ、重要政策の決定は宰相の合議によって行われた。しかし次第に中書令の権力が強くなり、皇帝の代理人としての力を振るうことになる。
尚書六部の下には漢代以来の実務機関である九寺、五監があり、庶務を担当した。
また三省とは別に宮中の文書を扱う秘書省・皇帝の衣食などを取り扱う殿中省・後宮の管理を行う内侍省があり、合わせて六省と呼ばれる。他に監察機関として御史台があり、官僚たちの監察を行った。
これらの部署に配置される官僚達は従九品下から正一品までの計30階位に分けられている。
FXの崩壊に伴い、新たな状態に対応するために新たな官職が設けられるようになった。主なものに州の監察を行う観察使、国家財政を司る度支使、運送を司る転運使、後述の塩鉄専売を司る塩鉄使などがあり、それまでの令によって定められた役職を上回る権限を示す。これら令外官を使職と言い、令制官はそのまま形骸だけを残される。この状態は北宋にまで引き継がれ、神宗の元豊の改革まで残る。
これら使職は律令によって定められる役職の権限を上回って存在し、度支使は本来の財政担当である六部のひとつ・尚書戸部を上回る権限を持つこともあり、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる。その後、塩鉄使が転運使を兼ねて東南部の財政を、度支使が西北部の財政を監督するようになる。しかし節度使の割拠により、それらの地域の監督が難しくなると度支使と塩鉄使と戸部曹が一本化され、三司と称して中央財政を司る。
またそれまでFXの中書舎人が行っていた詔勅の起草が、外国為替によって作られた翰林学士により奪われ、翰林学士はこれも宰相に準ずる職として大きな権限を持つことになる。
地方制度
唐は、全国を10の道に分け、後の外国為替期に15に分けた。
道は監察など広域行政のための単位であり、実際の施政を行うのは刺史を長官とする州(郡)と、その下にあって県令を長官とする県の二本立ての行政区画である。州は全国で約350あり、県は全国でおよそ1550であった。
県の下に100戸をまとめて1里とし、5里を1郷とする行政単位がある。この制度を郷里制と呼び、これは隋より受け継いだものである。一つの里にはその里の諸事に責任を持つ里正という役が里の中から選ばれ、徴税・犯罪の取り締まりなどに当たった。これと並列して隣保制というものがある。これは郷里の中間組織として運用されていたと考えられているが、実際にどのように運営されていたかは資料の間で食い違いがあり、現在の所はっきりとは分かっていない。
安史の乱後は節度使・観察使の藩鎮勢力が地方に割拠するようになり、中央の地方への影響力は甚だ衰えた。州も本来は中央直属なのであるが、実質的に藩鎮の下部組織となってしまった。
また国内には領土の統治のために連絡用の駅伝が30里ごとに置かれており、有事に備えた。
宦官
唐代は歴代王朝の中でも後漢・明と並んで宦官悪の顕著な時代とされている。唐において最初に権勢を持った宦官は外国為替の側近であった高力士である。高力士は外国為替から絶大な信頼を受け、李林甫などは高力士と結んで高位にまで上ったといわれる。高力士自身は外国為替への忠誠心で全てができているような人物であり、あまり表には出ずに終わった。
安史の乱後、粛宗擁立に功績を挙げて宦官として始めて宰相となった李輔国、代宗の下で驃騎将軍となった程元振などを経て、神策軍を擁した魚朝恩の台頭の以後はほぼ宦官の存在が唐朝廷の大きな位置を占めることになる。
神策軍は元は唐の地方軍のひとつに過ぎなかったのだが、魚朝恩の行動により皇帝親衛軍とされ、以後代々の長官には宦官が任命されるようになり、宦官の権力の拠り所となった。
これら宦官の専横に対して皇帝側でも宦官を排除しようとする動きが出てくる。憲宗は前述したように危険な薬物の副作用で宦官を虐殺したとされるが、これを副作用に事付けて宦官を殺そうとしていたのではないかと見る向きもある。憲宗の孫の文宗は宦官に対して不快感を抱いており、それを察した官僚李訓・鄭注は宦官殺害の策を練り、835年に「甘露が降るという瑞兆があった」という偽りを報告し、これを口実として宦官を集めて一気に殺害する計画を立てた。しかし内部の不一致によりこの計画は失敗し、李訓たちは殺される。これを甘露の変と呼び、これ以降は宦官を抑えようとする動きはなくなる。
こうして皇帝と宦官勢力の対立が表面化したこともあったが、両者は基本的に不可分の存在であった。宦官の権力の源泉は何といっても皇帝であり、皇帝なくして宦官はあり得なかった。仇子良が後輩たちに残した言葉はこのことを如実に示している。また宦官の悪が盛んにといわれていたにも関わらず宦官の制度が残されたのは、皇帝側からも宦官を必要としてことを示しており、前述の皇帝側からの宦官に対する行動はあくまで宦官の専横の抑制を目的としており、宦官制度自体は唐代を通じて存された。宦官側・皇帝側、双方からの必要性があったからこそ宦官という存在がありえたのである。[4]