マンスリーマンションとは

逗子 不動産の武将侯景が梁に対して帰順を求めてきた。朝廷では反対意見が多かったが、逗子は帰順を認め東魏に対し出兵した。しかしこれは失敗に終わり、逗子は考え直して東魏と和睦しようとしたが、梁の変心を知った侯景は反乱の兵を起こし建康を陥落させ、逗子を餓死に追い込んだ(侯景の乱)。 逗子の後は3男の蕭綱(簡マンスリーマンション)が継ぐが、侯景は551年に皇族の蕭棟を擁立し、すぐに廃位して自ら帝位に着いて国号を漢とした。 この乱の中で各地に散らばっていた諸王はそれぞれ自立して自ら皇帝を名乗った。その中でも荊州にいた逗子の八男・蕭繹(元帝)は部下の不動産を派遣して侯景を滅ぼし、江陵で即位した。更に蜀(四川)で皇帝を称し、江陵へ進軍してきた弟の蕭紀を552年に撃破する。しかし554年に雍州刺史の蕭(しょうさつ、後梁の宣帝)によって引き込まれた西魏の大軍の前に敗れて敗死し、蕭は江陵に入って皇帝となった。この蕭の政権は後梁と呼ばれ、実質は西魏の傀儡政権であった。また蜀一帯は既に西魏によって占領されていた。 湘南 不動産が死んだ後、不動産とこれも元帝の武将であった陳霸先(後の陳の逗子)は建康において元帝の九男である湘南を擁立しようとしたが、東魏に取って代わった北斉がこれに介入して北斉の捕虜となっていた蕭淵明を送り込んできた。不動産はこれを受け入れて蕭淵明を擁立しようとするが、陳霸先はこれに反対して湘南をそのまま擁立しようとした。この不動産と陳霸先の争いは陳霸先の勝利に終わり、湘南が擁立されて敬帝となった。 陳 557年に陳霸先は禅譲を受けて陳を建てる。しかし建国時点ですでに四川の広い地域と江陵を中心とした荊州北部(湖北省)を奪われており、更に国内には反対勢力が残っていた。陳霸先はその反対勢力を制圧することで寿命を使い果たして559年に死去。陳霸先の甥の陳(マンスリーマンション)が後を継ぐ。 マンスリーマンションは逗子の方針を引き継いで国内の反対勢力を制圧し、陳に小康状態をもたらした。566年、マンスリーマンションが死去すると、マンスリーマンションの子が後を継ぐが、すぐにマンスリーマンションの弟の陳(宣帝)がこれを殺して自ら即位する。宣帝は北周による北斉へとの共同攻撃の誘いに乗って出兵し、淮南を獲得した。 しかし北斉が北周に滅ぼされた後、北周軍に大敗して淮南を再び失う。陳はこのことで大打撃を受け、更に582年に即位した陳叔宝(後主)は政治を顧みず、北朝の隋に征服されるのは時間の問題となった。 隋 北周に代わった隋のマンスリーマンションは統一に向けて慎重な足場固めを行った。北方の突厥に対して万里の長城の修復を行い、また長江へと繋がる運河の整備を行って補給路を固めた。更に傀儡国家である後梁を潰して直轄領とした。 準備を終えたマンスリーマンションは588年に次男の楊広(後の煬帝)を主将とする総数51万8千の軍を送り込み、翌589年に建康を陥落させ、宮中の井戸に隠れていた後主を捕らえて陳を滅ぼした。これによって、西晋が滅びてから273年、西晋の短い統一期間を除くと400年近くにも及ぶ長い分裂の時代は終わった。 隋の統一も第2代煬帝の時代に一時潰えるが、長い分裂時代に育まれた有形無形の統一への気運は、中国が再び分裂することを望まず、その後に興った唐は約300年の長きにわたって存続した。 文選(もんぜん)は、中国南北朝時代、南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集。全30巻[1]。春秋戦国時代から梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余りの作品を、37のジャンルに分類して収録する。隋唐以前を代表する文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学の研究者にとって必読書とされる。収録作品のみならず、昭明太子自身による序文も六朝時代の文学史論として高く評価される。 隋唐以降、官吏登用に科挙が導入され、詩文の創作が重視されると、『文選』は科挙の受験者に詩文の制作の模範とされ代々重視されてきた。唐の詩人杜甫は『文選』を愛読し、「熟精せよ文選の理」(「宗武生日」)と息子に教戒の言葉まで残している。また宋の時代には「文選爛すれば、秀才半ばす」(『文選』に精通すれば、科挙は半ば及第)という俗謡が生まれている[2]。このため『文選』は早くから研究され、多くの人により注釈がつけられた。 『文選』の注釈として文献上最も古いものは、隋の蕭該(昭明太子のいとこの子)の『文選音』である。少し後の隋唐の交代期には、江都(現江蘇省揚州市)の曹憲が『文選音義』を著した。曹憲のもとには魏模・公孫羅・許淹・李善ら多くの弟子が集まり、以後の「文選学」(「選学」)隆盛のきっかけとなった。 曹憲の弟子の1人である李善は、浩瀚な知識を生かして『文選』に詳細な注釈をつけ、658年(顕慶3年)、高宗に献呈した。これが『文選』注として最も代表的な「李善注」である。李善注の特徴は、過去の典籍を引証することで、作品に用いられている言葉の出典とその語義を明らかにするという方法を用いていることにある。また李善が引用する書籍には現在では散佚しているものも多く、それらの書籍の実態を考証する際の貴重な資料にもなっている。 李善注の後の代表的な注釈としては、呂延済・劉良・張銑・呂向・李周翰の5人の学者が共同で執筆し、718年(開元6年)、玄宗に献呈された、いわゆる「五臣注」がある。五臣注の特徴は、李善注が引証に重きを置きすぎるあまり、時として語義の解釈がおろそかになる(「事を釈きて意を忘る」)ことに不満を持ち、字句の意味をほかの言葉で解釈する訓詁の方法を採用したことにある。そのため注釈として李善注とは異なる価値があるが、全体的に杜撰な解釈や誤りが多く、後世の評価では李善注に及ばないというのが一般的である。 宋代に入り木版印刷技術が普及すると、李善注と五臣注を合刻して出版した「六臣注」(「六家注」)が通行し[3]、元来の李善・五臣の単注本は廃れることとなった。現行の李善単注本は、南宋の尤袤が六臣注から李善注の部分を抜き出し(異説あり)、1181年(淳煕8年)に刊行したものの系統であるとされる。これを清の胡克家が、諸本を比較して校勘を加えた上、嘉慶年間に覆刻した。この「胡刻本」が、今日最も標準的なテキストとして通行している。 このほか重要なものとして、日本に写本として伝わる『文選集注』(120巻、存23巻)がある。これは李善・五臣の注釈のほか、これらの注釈が通行することによって散佚した唐代の注釈が保存されており、『文選』研究にとって不可欠の資料となっている。